夏目漱石は日本文学の中でもっとも有名な文豪であると言っていいでしょう。学校の教科書でも夏目漱石に触れないものは一つもありま
せんし、
『吾が輩は猫である』や『坊ちゃん』というタイトルも言うまでもなくとても有名です。
文章自体も、多少誤字があったり明治時代の古い言い回しがところどころにあったりするものの、全般的に平易で読みやすく、現代に至っても多くの人から親し
まれるだけ
のことはあると思います。
とは言え夏目漱石の文学のメンタリティは、結構自己中心的です。自己中心的と言ってもそれは決してリーダーシップであるとか魅力とかそういうものではな
く、精神的にはニート根性丸出し、まわりからは口では偉そうにしている鬱陶しい奴と思われていて、実際自分でも自分はすごい奴だと
根拠もなく思
いこんで平然としている、社会に出れば口では立派な建前を言うけれども満足に仕事一つもできずに速攻リタイアする(と言うかたぶんそもそも就職活動自体し
ない)というような、そういうどうしようもないような
自己中心性が文面の端々から漂ってくるわけです。
とは言えそれが文学的にマイナスかと言うとそういうわけでもなく、自己中心的脳内世界が基軸にあるとは言っても、そこから紡ぎ出される世界は一度どっぷり
漬かってしまうと面白いわけです。やはりフィクションの中にあるドラマチックな展開というのは非常に面白いわけです、現実の中で同じような
ドラマチックな展開を期待するのは単にイタいだけであるとしても。テレビの中では助さん角さんが印籠を出して控えおろうと叫ぶとカッコいいけれど、現実の
生活の中で「俺に天下の副将軍と同じような権力があれば、世の中の悪い奴をこらしめる旅に出てやるのに」と言ってもイタいだけと言うのと同じような理屈で
す。ですけど夏目漱石のメンタリティというのはこれと同レベルのところにあるわけでして、だから文学としては面白い、だけど本人にはお近づきになりたく
ない(本人は既に死んでますけど)という世界ができあがるわけですね。
ちなみに当サイトの姉妹サイトとしてニート向けの就職の手引きサイト『
自由への道』が開設されていますが、夏目漱石の小説をニート小
説の観点から解析していくと、このサイトで書いている就業支援がどこまで効果があるのか結構微妙かもしれないと思えてきます(笑)。
さて、このような夏目漱石のメンタリティを踏まえた上で、夏目漱石の作品を解説していきましょう。こちらで解説する小説は、夏目漱石の代表作『坊ちゃん』
です。
青空文庫版『坊っちゃん』
『坊っちゃん』は主人公の生い立ちの話から始まります。最初の武勇伝についてもニート幼少時代の点から細かく解析すると色々と面白いところはあるのです
がそこは細かすぎるのでひとまず置いておくとして、清が出てくるあたりの話から主人公のニート根性臭さが出てきます。父からはダメな奴扱いをされながら清
から甘やかされすぎるという歪んだ家庭環境はニートの研究に良いのではないかと思いつつ、この作品単体で鑑賞するニート根性丸出しのポイントは、金銭感
覚。基本的に主人公は金銭に恵まれていません。家は裕福ですが、結局その財産のおこぼれに主人公はあやかることなく、最終的には四畳半の安下宿に住むまで
追い込まれるわけです。金に恵まれないわけですが、とりあえず兄からお金を600円ほどもらえるという話になります。『坊っちゃん』の初出が明治39年、
この時代の600円は大金です。大雑把な目安として、この時代の1円は現在の価値で数千円します。
無断リンクしたこちらのホームページを
読めば、その金銭的価値が分かろうかと思います。どんなに低く見積もっても、現在の価値で200万円は下らない大金です。しかしそれを、主人公は「何の六
百円ぐらい貰わんでも困りはせん」と断言します。でも、
実際にはちゃっかりもらってます。
これです。まさにこれこそが親に取り付いて全く恥じないニート根性。そもそも清にしても態度は同じです。清が何か主人公にあげると言いますが、主人公は別
にそんなのいらないのにと言います。でもやっぱり、
ちゃっかりもらってます。口では金銭に淡白であるかのように言いながら、体は全く別
のことをやっています。清から3円もらった時も、そんな金なんていらないのにと言いながら、それをうっかり便所に落とした時は清に
きっちりそ
のことを言
いに行っています。さらに言えば、金には淡白であるかのように自分では言っておきながら、父親が小遣いをくれないことには閉口しています。これが主人公の
金銭感覚。明らかに矛盾しているのですが、主人公の中ではこの二つの論理が何の摩擦もなく共存しているのです。
さらに言えば幼少時代の回顧の中にも、ニートくさい金銭感覚が浮かび上がってきます。栗を盗みに来る勘太郎の話では、最後に母親が「袷の片袖も取り返して
来た」というところは細大漏らさずしっかり覚えています。その一方で、古川の田圃の井戸を埋めるいたずらをした時には後始末でこちらから金を払わなければ
ならなくなっています。はっきり言えば主人公のせいで家が罰金を払わないといけなくなったわけですが、「古川が真赤に
なって
怒鳴り込んで来た。たしか
罰
金を出して済んだようである。」と、
自分のせいで金を
払ったことは微妙にスルーです。
このあたり、親の脛をかじりまくっているのにそのことを恥じもせず、かえってサラリーマンを会社の奴隷扱いし、それでいて自分の親にはそのサラリーマンを
辞めるよ
うには言わないと言うニート根性の原点が見えるのではないでしょうか? あるいは自分ではまったく働きもせず年金も納めていないくせに、いざ自分の老後が
危なくなってくると急に年金問題がここまで悪化したのは政府のせいとうっちゃりを食らわせる精神がかいま見えてくるのではないでしょうか?
ちなみに兄と別れる時、兄は清のためにと50円を主人公に預けます。この50円は主人公が清に渡すと兄に約束はしていますが、主人公の性格を考えるに、実
は
清に渡していないんじゃないかという気がしてなりません。まあ真相は闇の中です。
そう言えばその後、四国に教師として赴任する際にも清にお土産をねだられますが、清が赴任先のことをよく分かっていないことに閉口し、閉口するついでにお
土産の話もスルーされています。少なくとも作品の中ではこれ以後清へのお土産の話は出てきていませんから、完全スルーされているんでしょう。清がよく話を
分かっていないことを口実にお土産の話をスルーするあたりに主人公の薄情さと自分への言い訳度の実態がかいま見えます。
序盤の話の次に、今度は主人公が学校に入学する顛末が書かれますが、そもそも入学する動機もいい加減です。あれこれと理屈を並べてはいますが、要するに
働
きたくないから学校に行こうというわけです。現在で言うモラトリアム人間です。昭和末期にその曙光が差し、平成の時代に大きく毒
花の大輪を開いた社会現象を、既
に明治時代に体現しているというのは実に先進的、当時の時代で言うハイカラですが、ちっともありがたみがありません。とは言えお年寄りの方に「わしが若い
頃に比べて今の若い者ときたら・・・」と小言を言われた時には、この『坊っちゃん』を贈呈するのが良いでしょう。『坊っちゃん』が発表された年と言えば、
今のおじいちゃんのさらにもう一つおじいちゃんくらいの世代の話です。
とは言え一つ謎なのが、どうしてこの時代にここまでリアリティあるニート像を的確に描くことができたのだろうかという点です。自叙伝的な話にも思えます
が、夏目漱石は帝国大学(現在の東大)を卒業しているエリートです。どうしてこんないい加減な態度で帝国大学になど入れるのだろうと不思議に思ったのです
が、本人が別で記した『
私の経過した学生時代』
を見てピンと来ました。こいつ入学試験受ける時に、カンニングか替え玉受験しやがったな(漱石の兄は正真正銘のエリートみたいですし、当時の入学願書に写
真貼付などということがあるかどうかも微妙なところです)。イギリス留学の経歴もありますが、『
倫敦消息』にあがって
いるロンドン滞在記を見ても、まともに話をする相手は日本人で、イギリス人の話した言葉はほとんど片言で済むような内容ばかり、後は視覚と動作だけで説明
が
ついてしまう記述だけで終わっている点からして、実は英語なんてろくに話せないまま勢いでイギリス留学をして、留学先でもやっぱり英語が話せないのでイギ
リス人の友達もできなかったのではないかと思われます。ちなみに現在でも
TOEIC300点台くらいの実力しか無いんじゃないかと思えるような人が平気で語学留学などと称してアメリカに行ってしまう(そして当然英語が通じず、
場末のパブで同じように落ちこぼれ日本人同士で日本語で馴れ合って留学期間を潰して終わる、英語での生活なんてしてないので当然英語の実力も上がらない)
ことがあります。留学の実態などそんなものです。
漱石の文章は現代の目から見るとほかの明治作家に比べて平易で読みやすい文ですが、明治時代の他の文豪に比べて文章力が劣り、文語体を書ききれなかったと
いうのが実情でしょう。ただ昭和、特に戦後になって急速に文語が口語に近づき、明治時代のようないかめしい文章を目にすることもなくなりました。皮肉なこ
とに漱石の文章力の無さは戦後になって平易であるという評価になるわけですから、何が幸いするか分かりません。
閑話休題。とにかくモラトリアム人間そのままの姿勢で学校に入ったので成績が良いはずもなく、成績は底辺をさ迷うものの、とりあえず卒業します。卒業する
時に教師の仕事を校長から紹介してもらいます。どうして成績最底辺なのに仕事を紹介してもらえるのだろうかと不思議にも思えますが、四国の辺鄙な場所の教
師など誰も勤めたがらないということなのでしょう。しかし誰か教師を紹介してくれと言われているので校長も紹介しないわけにもいかない。そこで仕事もなく
ブラブラしている主人公にこの仕事を紹介したと考えれば辻褄は合います。実際、主人公も「これも親譲りの無鉄砲が祟(たた)ったのである。」と明言してい
ます。この話を受けること自体が無鉄砲だと言わざるを得ないレベルの仕事であるというわけですね。でも主人公は引き受けます。無鉄砲云々と言うより、他に
就職できるところが無かったということでしょう。自分の努力不足、実力不足はスルーして、あくまで親ゆずりの性格のせいと言い換えるあたりに、この主人公
の無責任さがかいま見えます。あるいはここで言う親譲りの無鉄砲とは、「替え玉受験で帝大に合格させようという無鉄砲な親の考えに引っかかって俺の人生は
こんなふうになったんだよ」という漱石自身の言い訳を暗にしているだけかもしれません。漱石の小説は全体的に、作者自身の考えと小説の中の世界とを切り離
せていない雰囲気があります。少なくともニート気分満載の漱石が自分の生活ぶりの言い訳をつらつらと書いているのが漱石の小説と考えれば、物語の解釈とし
て辻褄が合う部分が多々出てきます。ですのでこのサイトではそういうスタンスで漱石の小説を解釈していくことにします。他のもっともらしい漱石の小説の解
釈論は、他の
書籍に書かれていますので、興味のある方はそちらを見られる方が良いでしょう。
さて、主人公は四国に赴きます。四国にたどりついてから出てくる言葉と言えば、その土地にいる人を野蛮人扱いする評価ばかり。ここで客観的に主人公の振る
舞いを見れば、見知らぬ土地ではどうすることもできず、目的の中学校に行くには人に聞いて行くしか無いわけです。あるいは右往左往している、というのが実
態かもしれません。しかしここで主人公のニート根性という性質を考えれば、自分が知らなければ他の人が丁寧に案内してくれるのが当たり前、くらいに考えて
いて、そこでちょっとでも素っ気なくされると、たちどころに相手が自分を丁寧に扱わないのは相手が全然できてない人間だからだ、という思考に直結するので
しょう。ですので曲がりなりにも少しは丁寧に対応してくれた筒っぽうを着た男だけは、文中では比較的丁寧な表現をされています。ちなみにこのあたりの叙述
は、イギリス留学した直後あたりの経験を書き殴っているのではないかと邪推してみると、結構楽しいです。
さて宿の部分はここでは割愛します。学校に着任すると校長から話を受けます。ここでニート根性満載の主人公が、大層な訓示を受けて急に仕事を辞めたくなる
というのは、興味深い点。最初から働く気の無いニートの心理の裏が透けて見えます。そもそも兄から家を追い出される時には「牛乳配達をしても食ってられ
る」などと言いながら、金をもらうとたちどころに働く気も失せて学校に進学した主人公。教師の職に就く時も、学校に着くまでは教師になるつもりで来ていて
も、学校に着いて具体的な話を聞いた途端、働く気が失せたのでしょう。何だか面接の約束をした後、面接をすっぽかすニートみたいではありませんか。
とは言えこのシーンでは校長から慰留され、次に教師の紹介にうつります。この紹介で面白いのは漢学の先生。この先生だけ評価が高いのです。それはあれこれ
と主人公に気遣うようなことを言っているから、気を良くしているということでしょう。実態はその気遣うような言葉と言うのはほとんど社交辞令であるわけで
すが、主人公はどうやら心配りと社交辞令の区別もろくについていないようです。
それ以外の先生に対しては酷評が続きますが、赤シャツと、うらなりが酷評の対象になっているのは興味深い点。二人とも主人公に対してきつく当たっているわ
けではありません。それではどうしてこの評価なのかと言えば、赤シャツが文学士でうらなりが英語教師と言う点にあると考えるのが妥当であると思われます。
イギリスに留学してもやっぱり英語ができない、そして同時代の文学者の中では明らかに文章力が劣る漱石のコンプレックスが透けて見えますが、その八つ当た
りで酷評されることになる二人もなんとも哀れです。山嵐に対する評価が酷なのは、上から見下ろしているような言葉遣いが気に障ったからでしょう。「礼儀を
心得ぬ奴」扱いです。一番礼儀がなってないのは主人公なんですが、これは
素でスルーされてます。しかしその後で山嵐の方から宿に行くと
いう話になった途端に、「しかし呼び付けるよりは感心だ。」と評価をゴロッと変えます。そんな考えを誰かに知られたら、それこそ「礼儀を心得ぬ奴」と思わ
れるに決まっているんですが、やっぱりそのことも天然で気がついてません。また、この山嵐が生徒から一番人気があるというわけですが、この説明の叙述も隙
が無い。「ただおれと同じようにせっかちで
肝癪持ら
しい。あとで聞いたらこの男が一番生徒に人望があるのだそうだ。」です。「人気のある山嵐」に、暗に「俺と同じ性質がある」とこじつけているわけです。裏
を返して言えば、「俺と同じ性質がある」から「この男が一番生徒に人望がある」です。まさしく独善的な自己肯定感ですが、これくらいの根拠も無いのに自分
が偉いという考え方をしなければ、ここまで見てきたような矛盾だらけの「自分は金銭に潔く(でもがめつい)、社会に出れば立派に働く(でも働きたくないか
らモラトリアムで学校に行ったし、仕事に直面しても真っ先に働くのをやめようかという考えに直結する)」という性質を、本人は何の違和感も無く持つことは
できないかもしれません。
ここからしばらく解説は割愛します。これまで見てきたニート像で、ほぼ主人公の行動は説明できるからです。強いて言えば温泉のところで校長と出くわし、そ
の後で山嵐と会って居直る場面は、同じようにニート根性のまた新たな一面が窺えるという感じでしょう。少なくとも山嵐の豪放で気風の良い中での癇癪持ち
と、主人公のお役目もまともに務めない、校長に見られたら居直るという中での癇癪持ちとは全く性質が違うと言えるでしょう。
さて、第4章の中盤あたりからニート根性丸出しの雰囲気が変わってきて、ニート像を客観的に見ることができるようになってきます。おそらくゴーストライ
ターが書いたんでしょう。明治の、まだ心理学などが未発達だった時代、メディアなどの情報だけでこれだけのニート像を的確に把握しつつ、しかも客観的に見
られる環境は無かったと思われます。したがって、このニート人間像を間近に見ることができる環境で漱石に近い人間が書いたと思われ、その有望な候補として
は漱石の兄が考えられます。
それまでのところでも、第3章あたりからゴーストライターが書いたのではないかと怪しまれる部分はあるのですが、かなり明確に雰囲気がおかしいところは第
4章の最後。「校長は笑いながら、大分元気ですねと
賞め
た。実を云うと賞めたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。」という記述です。これは第3章までの主人公像でできる表現ではありません。主人公は、温泉の
所で校長とすれ違った部分の解釈や、学校に着任した時の職場の先生達を評価した時の人物像からも窺える通り、基本的に相手から言われた言葉を、良くても額
面通りに受け取る程度、ひどい場合には相手の言葉を自分にとって都合よく解釈します。相手の考え方が自分の主観から外れた場合、相手が何を言おうとしてい
るのか理解できなくなるのです。このほか、坊っちゃんではよく相手のことを「妙な顔をする」「変な顔をする」という表現を使います。四国に行く事が決まっ
た時に清に「「
行く事は行くがじき帰る。来
年の夏休みにはきっと帰る」と言った時、四国についた直後で案内された宿屋を出る時に宿屋の者が見せた顔、次の宿泊先で宿の下女に5円を出した時、最初の
授業をした後で山嵐に「この学校の生徒は分らずやだな」と言った時です。これらの場面のそれぞれを客観的な状況に解析すると分かりますが、いずれの場面で
も共通しているのは、誰もが皆その時には主人公の言動に不満を持ちながらもそれをストレートに言葉にはしないということなのです(五円を出した時に宿の者
が見せた顔の理由は作中からは読めませんが、あるいは貧乏人だと思っていた主人公が案外に金持ちだったので面白くなかったのかもしれません)。ですので客
観的には相手はムッとしているわけですが、これが主人公の視点で見るとその程度の相手の感情も理解できない。これを夏目
漱石が客観的視点でニート像を見て客観的に解析してフィクション像を描けたのであれば大したものですが、あいにくなことに『坊っちゃん』については、夏目
漱石自身がニートみたいな性格をしていて、情景描写は完全なフィクションを創作したのではなく、自分の過去の実体験を脚色して書いているだけなのだと解釈
した方が辻褄が合う部分が多々ありますし、空想で描いたニート像にしてはあまりにもニートの心理描写にリアリティがありすぎます。
ところが第4章の最後でいきなり、「校長は笑いながら、大分元気ですねと
賞め
た。実を云うと賞めたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。」です。主人公の主観感情を飛び越えて、校長の意図を忖度しています。何気ない記述のように見
えますが、実は『坊っちゃん』の世界の中では一大パラダイム・シフトなのです。これがこの小説にゴーストが入っているのではないかと思われる所以です。
ということで、ここからが非常に『坊っちゃん』の解釈をするのが難しくなるところです。何しろ箇所によって書いている人が違うので、ニート根性の開き直り
とニート根性への揶揄と、周囲の人に対しての被害妄想や居直りと、ニート根性の人間を扱う周囲の人に対する同情とが入り乱れるのです。
ですのでここから先の解釈については割愛しますが、ここまでの解説から敷衍して小説を読んでいくと、また違った『坊っちゃん』像が見えてくるのではないで
しょうか。