最初から不足していた民間商船

民需所要量「300万トン」説と「1500万トン」説

民需所要量300万トン説

こちらは私が既に2ちゃんねるに投下したことがあるネタですが、ホームページに整理して掲載します。

太平洋戦争の敗因の一つとして、日本の民間商船がアメリカの潜水艦によって次々と撃沈されたことが挙げられます。民間商船が次々沈められたことから、資源 や軍需物資を輸送するための船舶が不足し、日本は物資に欠乏して兵器を生産することもままならず、アメリカ軍の圧倒的な物量の前に敗れ去ることになりまし た。

日本が開戦時に保有していた民間商船の船腹は合計で約600万トン。この600万トンの船で戦争に必要な物資を輸送すると同時に、日本本土に残っている人 々の食糧や、その食糧を生産するのに必要な機材、あるいは国民の生活必需品、それらを作るのに必要な設備機械、そういった国民生活を支えるための民需物資 も輸送する必要がありました。
それでは国民生活を支えるのに必要な民間商船は何万トンで、軍需物資の輸送に使うことができる船腹は何万トンだったのでしょうか。

ここでよく言われる数字は、国民生活を支えるのに必要な民需品を輸送するのに最低限必要な船腹量は300万トンだった、というものです。そして当初の 600万トンから民需物資輸送に必要な300万トンを引いた残りの300万トンが軍需品の輸送に使われる、ということになりました。

それでは本当に民需輸送に必要な船腹は300万トンで足りたのでしょうか。
ここで、全く異なる資料が出てきます。

必要船腹量1500万トン説

いきなり身も蓋もない数字が出てきました(笑)。
当時の日本に必要な船腹量は1500万トンだった、というものです。ソースは下記の新聞記事。
船 舶千五百万トン必要-大東亜の海運対策 経聯建議(1941.12.31)

1941年12月31日の記事ですから、対米開戦してから1ヶ月も経過していない時期の話です。大阪朝日新聞という一般市民向けの新聞ですから、読者の中 に当時の日本の所有船腹量が600万トンという事情を知る人も多くはなかったでしょうけれども、当時そういう日本の実情を知っている人がこの新聞記事を読 んだら、首を吊りたくなったかもしれません(笑)。
あいにくながら、この1500万トンという数字の計算基準を、この新聞記事から読みとることはできません。当時の日本は、日本本土全体、台湾、朝鮮半島、 満州、樺太、それから中国大陸で戦 争している日本軍、さらにサイパン、トラック諸島なども日本の委任統治領として実質的に支配していました。1941年7月10日から12月29日まで審 議を重ねた結果出た数字ということですから、この上に北部・南部仏印の日本進駐地域との輸送も含めた数字であることは間違いないでしょうが、時期的に見 て、開戦後に日本が占領したマレー半島、フィリピン、ジャワ島などの地域はこの計算には含まれていない可能性があります(ちなみにフィリピンのマニラ占領 がこの新聞記事掲載後の翌1942年1月2日、ラバウル占領が1月23日、シンガポール占領が2月15日、ジャワ占領が3月9日)。その場合にはさらに所 要船腹が増大します。
ちなみに占領地拡大にともなう船腹所要量は、最終的に2000万トンという数字も出てきます。ソースは下記の記事。

通 信、海上交通対策遺憾なし-逓相答弁(1942.1.28)
『船腹の充実が喫緊の要務たることはいうまでもなく、大東亜戦争勃発前においても不足していたので今日にあっては国防上明言することは出来ぬが、或場合に おいては一千五百万噸、或場合においては二千万噸という如く非常な増加を必要としている』


ただ、この所要船腹量は、あくまで軍需・民需合わせた必要量であり、その意味では民需のみで必要とされた300万トンと比較する数字ではなく、当時の日本 全体で保有していた600万トンという数字と対比して検討されるべき数字であるということは付け加えておきます。ただ、「或場合においては一千五百万噸、 或場合においては二千万噸」というのも微妙な言い回しでして、あるいは民需1500万トン、軍事作戦用500万トンで、合計所要量2000万トンという数 字を想定していたのかもしれません。


民需所要船腹300万トン説はどこから来たか

そもそも民需の所要船腹300万トンという数字はどこから来たものでしょう。
この民需所要船腹量は、NHKが放送した『ドキュメント太平洋戦争第一集・大日本帝国のアキレス腱~太平洋・シーレーン作戦~』で有名になりました。
その計算の根拠は、後に出版された本(タイトルは前出通り、平成5年8月5日初版発行、角川書店)でも明らかにされておらず、ただ「陸海軍や逓信省の計算 の結果」とのみ、簡潔に記されています。
この所要船腹量は開戦前には算出されており、前掲書には11月5日の御前会議に提出された資料に資源輸送用の船腹量として300万トンという数字が明記さ れていたということが記載されています。開戦前の数字ですから、占領地域をどこまで想定していたかは分かりません。あるいはフィリピンとマレー半島、およ び北部・南部仏印と、石油を産するパレンバン・ブルネイあたりを占領できれば、という程度の心づもりだったかもしれません。とは言えこの300万トンとい う数字は、きちんと民間商船の運用の実情を踏まえた上で計算されている数字なのかという疑問はわき起こります。

「民需300万トン」説は最初からつじつま合わせの数字だった?

さて、逓信省や陸海軍が計算したという民需所要量300万トン説と、民間の日本経済連盟会(面倒なので旧字は使いませんw)が算出した日本全体での 所要船腹1500万トン説。全くかけ離れた2つの数字ですが、それでは国と民間との間で所要船腹量に関する何らかの打ち合わせなどは無かったのでしょう か。また、国が民需300万トンという数字を計算する時、民間側に実情の問い合わせなどはしなかったのでしょうか。
実は、それを暗示する一文が、前掲の新聞記事に載っています。
もう一度、新聞記事をよく見てください。記 事はこちら(先ほどと同じリンク先です)。
その記事中に、よく見ると次の一節が書かれています。
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第二 海運管理
一、船舶管理 (イ)船舶は全部政府において一元的に徴用するを可とし、政府徴用と軍徴用とによりて区別なきを可とす、特務服役船も政府徴用船より提供せ らるべきなり
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よく見るとおかしな文章です。何故、「政府徴用と軍徴用とによりて区別なきを可とす」とわざわざ明記しているのでしょうか? それまで政府徴用と軍徴用と を明確に区別して運用していたというならともかく、それまでは民間商船は価格統制などは受けていたものの、実際の運用については明確に政府徴用と軍徴用と を明確に分けて運用されているわけではありませんでした。
ここで先ほどの『ドキュメント太平洋戦争』で出てきた一文が怪しい、ということになるわけです。先ほど説明しました御前会議での輸送船腹に関する話で、軍 事徴用300万トン、資源輸送用300万トンという割当が明記されています。
新聞にわざわざ「政府徴用と軍徴用とによりて区別なきを可とす」と書いている、そもそも政府徴用と軍徴用とを分けて運用するという計画の発端は、このあた りから出ていると解釈するのが良さそうです。
そして日本経済連盟会に、対米戦争で民需300万トン・軍需300万トンで運用するという打診が来ているということは、軍に対しても日本の船腹600万ト ンではそもそも供給が足りないという話もまわっているはずなのですが、どうやらそのような戦争計画にとって都合の悪い話は握りつぶされているようです。お そらく300万トンという数字も、「日本には600万トンの船があるんだから、軍と民間で半分ずつ使って300万トンずつ」という程度の考えで出されたの ではないかとも思われます。
まあ、このあたりは太平洋戦争における日本にとっては日常茶飯事なので、取り立てて驚くには当たらないでしょう。

開戦直後にいきなり逼迫した輸送事情

ちなみに開戦直後から、いきなり海上輸送事情が逼迫していることも新聞記事から窺うことができます。

長 期経済戦完遂に『船』が第一要素-原長官放送/鉄屑捻出挙国協力、実効挙げよ(1942.1.18)
「この強化拡充した機構の下で現下最も焦眉の急であるところの船腹拡充に邁進している、これが対策として政府は建艦計画と造船計画とを十分調整しかつ造船 の促進を図るため標準船型の徹底を期する等諸種の方策を講ずる」

戦 時大海運計画の内容 貨物船・油槽船に重点-南方の資源輸送に適応させる(1942.2.1)
「東条首相は施政方針において今日における最も重大なる問題は、資源不足にあらずしてむしろ交通運輸の整備如何に存するに鑑み船舶の建造には特に力を用 い、以て交通運輸の改善強化を図りたいと語り、八田鉄相は衆議院予算総会で『国鉄は従来の旅客輸送万全主義から貨物輸送第一主義に大転換しつつある』旨を 言明した、更に寺島逓相は衆議院の小型船舶乗組員手帳法案委員会で、政府の船腹拡充方針を説明し戦時標準船の大々的建造を明示した」

開戦直後、アメリカによる潜水艦のシーレーン遮断作戦などほとんど機能していない状態であ るにも関わらず、いきなり首相が施政方針で船舶整備の必要性を訴えなければならないほど日本軍の船舶受給は逼迫していました。
まあ、あわてても後の祭になっていたことは、現在では有名な話となっていますが。


民間商船はどのように整備されていったか

戦前の民間商船需給状況を調べていく

このようにして船腹不足のまま太平洋戦争に突入しているわけですが、それでは戦前において民間商船の建造はどのような政策のものに実行されていった のでしょうか。また、民間商船の不足はどのような経緯で発生していったのでしょうか。
それらを調べるために、戦前の民間商船史を新聞記事をたどっていくことで調べてみました。

世界恐慌が始まった1929年から、新聞記事をたどって戦前の海運事情を探ってみます。

単 独繋船の悩み-益々不況の海運界(1929.8.20)
『海運界現下の不振は当業者によって従来未だ経験せざるところとされているが運賃は繋船同盟その他一切の人為策を無視してさらに軟調を辿っているところは 皮肉である』

船舶に対する需要が低迷し、港に繋留されたまま稼働しない船舶が増え、なおかつ海上運賃も低迷している様子が窺えます。
ちなみにこの時期の新聞記事として興味深いのは下記の記事。

危 険性をはらむ世界の造船熱-海運不況は各国とも補助、人為策は結局不可(1929.9.19)
『世界がますます優秀船を要求するがこれ以上の船腹は不必要だということを裏書しているこれに類似の事情は他の産業にうかがうことが出来る、例えば製鉄業 で産業全体としては明かに製鉄能力の過剰を認められても各個の製鉄会社は絶えず設備を拡張し技術を改善して生産原価の引下げにつとめつつある』

旧型の船は余剰であるが新型の高性能の船は不足しているというギャップが存在していると、この記事で指摘しています。まるで「人は余っているが人材は不足 している」と言われたひと頃の不況のようですが、このような傾向が生じるのは不況期の特徴なのかもしれません。
この「旧型船余剰、新型船不足」というギャップは、下記の新聞記事にも読みとることができます。

快 速船なき我が海運界-軍事上からも大問題(1929.9.20)

イギリス・アメリカが高速船を多数保有していることに対し、日本に高速船がほとんど無いという状況が記されています。日本の優秀船舶が不足しているという 危機感が表れていると言えるでしょう。
ここで軍事的観点を持ち出してきているのも興味深い事象です。海軍が本気で高速船確保の必要を実感していたのか、それとも民間側から高速船の確保の必要性 を感じた時に軍を動かして高速船建造支援の国策を実現化するためのロビイングをおこなおうとしたのかということは新聞記事から窺うことはできませんが、と は言え、この時期から民間船舶政策に軍の影響力を行使しようという動きが生じていたのは興味深い点であると言えます。
後述の新聞記事で次第に明らかになっていきますが、軍部の意向が大きく反映されているのが戦前民間船舶事情の特徴です。既にこの段階でその萌芽が読みとれ ると言っても良いでしょう。

船 舶金融をどう改善する-恨みを含む海運界の顔(1930.3.20)

一方で新規造船に対する国家支援は腰が重いようです。
新造船建造時の融資補助制度として銀行からの貸出を年利6%とし、そのうち1.5%の利息分を政府が銀行に補助するという制度ですが、造船界からの反応は あまり芳しくありません。
このような融資制度が実際にどれだけの経済的効果を持ったものか、判断できるだけの材料がありませんので突っ込んだコメントは差し控えますが、海運業界不 況の折もあるのでしょう、政府としては新造船の支援に積極的では無かった様子は窺えます。
あるいは、前述の「旧型船は余剰であるが新型の高性能船は不足している」という民間海運業界の実態を政府側がよく理解せず、単に船腹は余剰であるのだから 新造船に対して補助をする必要は無い、という程度の認識だったのかもしれません。

困 難を極める船舶債権の整理-担保船引取の結果は概して成績不良(1930.6.1)

あるいは、上記のような新聞記事があり、中古船が担保能力としてそれほどのものでは無かったこともあり、金融業界の方が船舶に対する融資助成に消極的とい うことだったのかもしれません。

抵 当船腹の処分を債権銀行団に要望-社外船腹の徹底的整理を期待/極度の不振にあがき抜く海運界(1930.7.3)

この時期の海運業界と金融界の立場を伝える新聞記事はこれかもしれません。
極度の不況で運賃の値崩れもひどく採算割れが続出。過剰船腹の解体整理を優先させたいという思惑が海運業界の間にあります。
一方で金融業界が船舶の抵当引き取りを拒絶しているのは、抵当としての価値が低く、損失が出るのを恐れてのことでしょう。

ロ ンドン船価暴落(1930.11.18)
ロンドンでも船価が暴落しているという新聞記事。世界的に船腹が余剰であることが窺えます。

ア メリカは繋船率でも世界第一-先づ日本から曙光さす/主要国の船の動き(1931.2.11)
しかし翌年になり、わずかに海運に好転の兆しが見え始めているという報道がされます。

船舶更新の機運濃厚-各社各様の計画(1931.4.16)
旧型の船を処分し、新型の船に切り替えようとする動きが出ていることを伝える新聞記事。

繋 船解除 既に五万トン-運賃は割に上げず前途に期待さる(1932.1.14)
1932年になると船の稼働率がかなり上昇しているようです。それでもまだ繋留したままの船が多く運賃の値上がりにはつながっていませんが、不況期を脱し つつある状況が窺えます。

さて、このような景気回復の動きが見える中で、日本の船舶の能力を引き上げようとする試みがいよいよ始動します。

世 界に先鞭をつけた船質の改善案-議会でどう裁くか(1932.8.29)
『遠洋航海用の優秀船二十万トンを三ケ年間に建造するために政府は新造船に対して総トン一トン当り五十円を支給す、右造船助成金を交付されるものは本邦並 に植民地在籍の船齢二十五年以上の老朽船を新造一トン当り二トン乃至三トンの割合で解体することを要す』

老朽船を解体した上で新造船を建造する場合には、国から助成金を支給するという内容のものです。これがいわゆる船舶改善施設と呼ばれるもので、戦前日本の 造船政策の柱となるものです。
ところがここに、思わぬハードルが立ちはだかります。

造 船費暴騰に船質改善進まず-船主協会が躍起運動(1932.11.9)
『前臨時議会を通過したいわゆる船質改善案により去る十月一日から船舶改善協会が設立され、最初の予想では助成金の申請が殺到するものと見られていたが、 今日に至るも三井一隻、東洋汽船一隻で僅か二件に過ぎない、この原因は助成金下附施設が実施された後、某特殊方面からの建造注文及び為替安その他の原因に よる鉄材及び機械類の暴騰から、最近に至っては船舶の建造値段は二割五分も昂騰したので、船主も政府からの助成金のみでは船舶を建造する事が困難になった 為めで、こんな情勢では折角の船質改善助成案も充分利用されずとして船主協会では八幡製鉄所等に鉄材値上げ阻止方につき大蔵省に対して造船資金低資融通施 設の限度拡張(現在一千万円)及び利率引下(現在七分五厘)方につき陳情した』

鉄材・機械類が暴騰して船舶の建造価格が上昇したため、助成金があっても船腹を増やすことができないという状態になります。鉄材等の価格が上昇したのは 『某特殊方面』とされていますが、これは軍需が増大したことを暗示しているのでしょうか。満州事変発生後の時勢ですので、そのあたりで軍需が増大したのか もしれません。あるいはもう一つ、かなりうがった見方としては1934年12月のワシントン軍縮脱退通告を見越して資材の確保をおこなったという考え方も ありますが、ちょっとこれは時期的に離れすぎていて考え方に無理がある気はします。わざわざ「某特殊方面」という意味深な言葉の言い回しからすると、この 時期に既にワシントン軍縮条約期限切れを見越した建艦計画を立てていたとしても不思議ではありませんが。このあたりの軍需の動き方も知りたいのですが、戦 前の軍事機密の問題を新聞に掲載されるはずもなく、ネット上の資料だけで調べることは無理がありそうです。
いずれにせよ、日本の貧弱なインフラで船舶改善の動きが進まない状態を見て取ることができます。

さて、このように船の需要が増大しているが国内での造船が進まないとなれば、次に考えられる方法としては船舶の輸入です。
しかしこちらにも壁が立ちはだかります。

外 船の運航用輸入や傭船は絶対に阻止せよ-船舶検査の技術的励行も結局は不利益/神戸船主会が申合せて船主協会に善処を求む(1932.11.25)

この新聞記事から、戦前日本船舶に関する意思決定のひどい実体の片鱗が読みとれます。
まず船舶検査に関する記述から引用しましょう。

『老齢船に関する船舶検査の励行は程度の問題であって、若しこれを技術的な完全さで行う場合は船主は勢いその船舶を抛棄して代船を求めざるを得ない、然る に今日の如く新造船価が昂騰しており、更に内地で適船を得ない場合は外船の輸入が台頭するのは当然で、すでに一部にこの引合が行われている状態である、然 し乍らこのことは船舶改善の趣旨に反し我国海運政策としてもとらざるところであるから政府の船舶検査の励行については以上の諸点を十分考慮されるよう懇談 されたい』

つまり検査はあまり厳しくするな、手心を加えろと要求しているわけで、当時の日本船舶の安全性に対する危うさが窺えます。
そして船舶検査を厳しくして中古船が廃棄されれば輸入船が増えると指摘しています。すなわち海外の船舶は安全性が高いことを、この記事は暗に示しているの です。
その上で『また神戸船主会としては以上の見地から今後外国船の運航用輸入並に傭船を絶対になさざることを申し合せた』とありますから、船主協会は高品質の 外国製船舶は輸入せず、検査をろくにおこなっていない日本の船を使えと言っているわけですから、何ともひどい話もあったものです。

では何故船舶の輸入を阻止しようとしたのか?となると、おそらく価格つり上げをはかってカルテルを結んだのでしょう。
この政策は後々で日本の海上交通政策の致命的な足かせとなっていきます。


逓 信省では断然外船輸入許可制を採用するに決定-関東庁では尚考慮中(1933.2.13)
外国船舶が輸入許可制になったことを伝える記事。
『現在の儘これを放任することは一朝海運界が不況となった場合これ等の悪質船が総て沿岸航路に集中され海運界のため不況を一層深刻にすることは当然の理』 と、将来不況になった時に競争が激しくなったら困るから、とはっきり明言されています。
実際の経緯がどうなっていくかについては後述します。

船 舶改善施設の延長問題-机上経済(1934.2.8)
船舶改善施設の延長と制度の改善を提起した新聞記事。
また、日本国内において船腹不足が生じはじめているということも伝えています。

船 舶助成施設の延長案決る-助成金は十円引下げ(1934.2.14)
船舶改善施設の延長案。基本的にこの線で船舶改善施設は延長されます。

船 舶過剰問題は各国共通の悩み-助成金で日本のみ生色(1934.6.19)
世界的には船腹が過剰であることを伝える新聞記事。この中で日本だけが船舶改善施設によってほぼ余剰船腹を一掃していることを伝え、「この好成績は言うま でもなく解撤船二トンに対し新船一トンを建造する助成施設の原則による古船四十万トン解撤、新船二十万トン建造の結果である」としています。すなわち日本 には余剰船腹はほとんど無くなったということで、需要が拡大すれば今後は船舶を新造していくしかない状態になったということでもあります。

船 価暴騰して外船輸入計画頻り-逓信省は却下の方針(1934.9.17)
国内の余剰船腹が無くなった関係で船価が暴騰し始めます。前述の通り、日本の造船能力はまだまだ不十分な時でしたから、本来の頼みは輸入船舶。しかし管轄 の逓信省は、船舶の輸入を許可しない方針で臨みます。これ以後、日本の船舶は不足しはじめ、その弊害が各所に出てきます。

鉄 価暴騰で解体船輸入増加-数日間に二万トン成約(1934.10.12)
本来はくず鉄のための解体船輸入情勢を伝えている新聞記事です(戦前はくず鉄の輸入の一環として、旧型の船を海外から輸入し、その船を解体してくず鉄にす るという方法がよくとられていました)。しかしこの新聞記事で、当時の船腹不足がどのような状態であるかということが紹介されていますので引用します。
「邦解体業者の古船輸入は年初以来船価の世界的立直りによって阻まれ、しかも国内の解体適船は船腹不足のため暴騰を演じ、助成施設利用で新造船の見合船と なっているものでさえ期限のぎりぎりまで運航するといった有様」
世界的に船腹不足が解消されつつあり、船の需要が増大している様子が窺えます。同時に日本国内の船は不足しつつあり、中古船もギリギリまで利用されている と記されています。

外 国船の傭船三十七万噸に上る-第二次船質改善施設に絡み当局の態度注目さる(1935.2.7)
日本の船舶は不足している、海外からの輸入もできないということで、次に民間がおこなったことが外国船と契約して運行させることでした。しかしこれに対し ても当局は規制をかけようとします。国内では船腹が不足しており、もはや余剰船腹は全く無いというのに、何故そこまでと言う気がしますが、これも船賃を高 値で維持しようとするカルテルの影響なのでしょう。

外 船輸入制限可否論-大手筋の外船傭船激増は果して船腹不足の結果か(1935.5.1-1935.5.4)
神戸又新日報の新聞記事ですが、客観的な情勢と言うよりもおそらくは外国船の輸入や傭船に制限をかけるべきという派から突き上げられての提灯記事と思われ ます(笑)。「種々複雑なる船繰り事情」や「なお外船の傭船をせざるを得ない事実は果して何が故か、慎重研究を要する問題である」など、このように市場経 済に反して自分たちの利益を守ろうとする派閥の言い回しはいつの時代も難解です。

外 国船傭船と変態輸入慎め-六十七万噸で我が海運を圧迫/神戸船主会対策練る(1935.6.13)
変態輸入とは現在で言う便宜置籍船のことで、船籍は外国に置いたまま自社の船として使用することです。昔は変態という言葉はそんなに変な意味で使っていな かったのですね。
既に批判の対象を外国船傭船と便宜置籍船に絞ってきているということは、この時点で船の輸入規制は維持できると言う見通しを立てているわけです。
この時点で外国船傭船と便宜置籍船の使用量は67万トン、つまり既にこれだけの船が国内で不足していることになります。

変 態輸入船三十万屯に上る-支那置籍は十七万噸(1935.12.25)
便宜置籍船が30万トンにもなるという記事ですが、この新聞記事の注目すべき点はもう一つあります。
「既報の支那新会員章程発布により支那船乗組の本邦高級船員は支那海員免状所有者に限られた結果、本邦船会社の傭船は頗る制限をうけることとなる」とのこ とです。中国船に日本の高級船員が乗る場合には、中国の免状を取得しておく必要があるという、事実上の便宜置籍船制限策です。ただでさえ供給が不足してい る日本の船舶、この上に便宜置籍船の制限までして果たして本当に海運は大丈夫なのでしょうか?
全然大丈夫ではありません(笑)。
さらに時系列に沿って新聞記事を見ていきましょう。

日 本の繋船数英米より遥かに僅少-世界驚異の的(1936.2.24)
日本の係船数は英米よりも遙かに比率が少ないと言う新聞記事ですが、需給が逼迫している上に海外からの輸入も認めないということになればそうなるのも当然 でしょう。

暴 騰する船価に新造船洪水時代-設備、能力、拡張に大童(1936.6.3)
国内の造船所がフル稼働であることを伝える新聞記事。民間船舶から依頼が殺到していることに加えて、1936年1月のロンドン軍縮条約脱退、1936年 12月のワシントン軍縮条約失効に関連しているのでしょう、軍からも造船の要求が多数入っていると報道されています。その内情は戦前の新聞から窺うことは できませんが、たとえば重巡『熊野』『利根』『筑摩』は、この時期民間造船所で建造中ですし、条約失効後開戦までに、軍・民間の造船所で30隻以上の駆逐 艦を建造しています(開戦後竣工も含む)。あるいは造船所に余裕があるようであればもっと駆逐艦を建造するつもりだったのかもしれませんが、とは言え日本 の戦前の国力および国策では、史実の建造ペースが限界でした。

船 の黄金時代だ-造船所が抱く注文船百四十隻/古船相場暴騰 ぼろいただ働き!(1937.3.7)
造船価格が暴騰していることを伝える新聞記事。

“外 船輸入は尚早 統制で船腹緩和出来る”-神戸にて児玉逓相語る(1937.5.15)
外国船の輸入は時期尚早と逓信大臣が表明します。ここで初めて「統制経済」という言葉が出てきます。民間経済に対する政府の介入がどのような結果を招くか については後述します。
もう一点、「運賃高が非難せられるが物価におよぼす運賃の占める分量は大しものでない」というのは経済に対する認識不足です。運賃の物価に占める割合自体 はそれほど大きくはなくとも、輸送できる商品の量が制限されると、商品の需給が逼迫し、商品そのものが高値になります。このような輸送能力の不足に端を発 する経済の混乱が、これ以後徐々に表れはじめます。

禁 圧の法網を潜り古船変態輸入続出-年初以来既に十万トンに達す(1937.5.22)
便宜置籍船にすることによる輸入が続いているという記事。
政府もこの便宜置籍船による輸入を阻止するためにあらゆる手だてを探っている様子が窺えます。一方で船の需給が逼迫していると言うのに、その情勢を無視し て船の輸入をあらゆる手段を用いて禁じようとしているのですから、全くこの時期の海上交通政策については理解ができません。

船 舶管理令に准じ非常立法を考慮-配船、運賃などを国家が統制/逓信当局万全を期す(1937.8.7)
ついに具体的な国家統制の検討に入ります。

発 動は必至ながら要は運用の巧拙-官民合同の統制機関実現か/船主も自重協力申合/船舶管理断行(1937.8.23)
1937年7月7日に始まった日中戦争の影響で軍需輸送が増大している状況が窺えます。しかし日本は既に船腹不足で、ただでさえ逼迫している船舶の需給が ますます深刻化していきます。そこで本格的な船舶運用の国家統制が検 討され始めます。

船 舶管理法実施後の問題 (上・下)(1937.9.18-1937.9.19)
1937年10月1日より船舶管理法による国家統制が始まります。

ボロ儲けの裏に不安募る解体屋-変態置籍船は一応片づいても問題はまだまだ/時の問題(1937.10.9)

さすがに深刻な船腹不足により、便宜置籍船を全て輸入を許可することで事態を収拾しようとします。
ちなみにこの記事の中で興味深い一節。
「しかも船舶払底の所へ持って来て今度の支那事変が勃発し船腹飢饉がいよいよ激しくなる石炭も塩も阜頭に雨ざらしになる状態となって来た」
戦時中、占領した南方で産出する石油を輸送しきれず、現地で石油を無為に焼却するしかなかったという話もありますが、既に同じような状態が1937年の時 点で発生していたことが窺えます。
輸入される便宜置籍船の多くは旧型・低速力の船ですが、日本の船腹が不足している状態ではこのような船でも貴重な戦力として活躍することになります。

四 十隻に達す外国船の輸入申請(1937.11.5)
外国船の輸入解禁。世界的にも船腹の余剰問題は解消されている時節でしたので、これにより輸入される外国船の多くは旧型・低速力のものだったようですが、 それでも船腹不足の日本においてはこれらの船も貴重な輸送力として活躍することになります。

こうして船腹輸入の解禁によって、船腹不足問題を一時的に解消することができました。世界的にも船腹の余剰が少なくなってきていた時節ですので、輸入でき る船は旧型・低速力のものが主だったようですが、それでも船腹の需給が極度に逼迫していた日本では貴重な輸送力として活躍しました。
一時的に船腹の需給は緩和したのでしょう、新聞には船腹の需給が逼迫していることを示す記事は載らなくなります。しかしそれも主に船腹の輸入頼み。国内の 造船能力は貧弱で、日本の船腹需要を満たしきるだけの能力はありませんでした。
これ以後、日本の船腹問題は造船能力の不足問題に焦点が移っていきます。


標 準船型制実施-逓信省の具体案成る(1938.8.9)

標準船の規格制定がおこなわれます。主眼はもちろん、量産工数の削減化。後の戦時標準船に比べれば規格の統一は不徹底と言われるものですが、それで も造船能力の不足から標準規格への関心が高まりだしています。

船 舶輸入の許可方針変らず-きのう船舶管理委員会(1938.12.13)
船舶管理委員会で、船舶輸入を許可する方針を維持する方針が確認されます。この記事中で注目されるのは下記の一節。
「なお造船材料の確保ならびにその価格の抑制、支那海運海員の養成優秀化、需要などについても質疑応答が行われた」
造船用の材料が不足していること、船員が不足していることなどが暗示されます。造船用の材料が不足していると言うのは、おそらく材料の購買力不足と言うよ りも輸送力不足が原因であると言えるでしょう。日中戦争の拡大により、海上輸送力の一部を軍需に割かれているだけに、民需資材の輸送に支障が出ているのか もしれません。
需要というのは今後の輸送量の需要のことでしょうか。需要が減少して、再び船腹余剰・人員余剰になってはたまらないという思惑も見えます。

海 運統制強化-大臣権限を著しく拡大/船舶業組合法案要綱(1939.2.2)
1937年に施行された船舶統制は、高値運賃に対する統制という色彩が濃いものでしたが、今回の船舶統制は明らかに戦時体制を意識したものになっていま す。

昨 年末我所有船舶五百三十万トン超過-事変下、海運界の底力(1939.2.28)
日中戦争直前には450万トンだった船腹が、1年半の間に80万トン増加していると伝えている新聞記事。これは輸入によるものの増加も含めての数字だと思 われます。3年後、1942年初頭には700万トンに達する予定と書かれておりますが、史実は600万トン止まり。果たしてこの間の造船計画はどうなって いるのか興味深いところです。とは言っても実質3年弱の間に70万トンの増産をおこなっているわけですから、これでも日本の造船・海運界は相当な努力をし ているとも言えます。

改 善助成による解体一箇年延長-「船腹払底」情勢に対応(1939.4.13)
この時期、再び船腹が払底し、船腹量が完全に不足している状況が窺えます。戦時下ということで、特に軍需輸送に対しての船腹が不足していることが顕在化し ているのかもしれませんが、元々政府は民間経済の輸送力不足については関心が薄い傾向があるようですので、民需でも船腹不足は相当なものになっていたのか もしれません。

必 要に応じて船舶管理を発動-田辺逓相、挨拶で強調/船主協会総会開く(1939.5.14)
さて、上記の記事中でいくつか興味深い説明がされています。
「政府は昭和十七年度末までに総トン数七百五十万トンの船腹拡充の計画を有するも乗組員の供給は極度に払底している」と書かれています。昭和17年に船腹 750万トンとは史実よりも大きな計画となっていますが、どうしてこの計画が実現しなかったのでしょうか。
理由の一つとして乗組員の供給が払底していることが挙げられています。極度の船腹不足に対して船腹量を急増させたいが、関連システムがそれに対応できてい ない日本の苦しい台所事情の一端が浮き彫りになっています。

船 腹拡充案-造船事業委員会に諮問(1940.6.25)
「現下の船腹不足に対処するため政府は新船の建造と修理の促進を中心にあらゆる方法を講じて船腹拡充をはかつているが資材取得の困難と労働力の不足により 造船、修繕とも極めて困難な立場に立至っている」
このあたりが国力不足の悲劇というものでしょうか。1940年6月ですから、資材・人材の多くを軍需に割かれている事情もあるのでしょう。

国 際危機はどう響く(1~9)(1941.8.12)
1941年8月、対米開戦直前の日本の経済状態を俯瞰した貴重な新聞記事。
海運だけを取り出して調べてみても下記のような記述が目につきます。
『即ち昭和十二年頃から世界的海運景気の驀進は物凄く之に伴い我国海運界も頓に活況を呈して来たが、更に七月支那事変の勃発するや貿易の増進、特殊用船の 徴発による船腹の不足は若松-京浜石炭四円二十銭、北洋材四百円、傭船料大型船七円八十銭という相場を現出せしめ、海運会社の業績も好転を示し増配乃至は 配当復活を行う等目覚しい活躍ぶりを示して来た』
残念ながら比較の対象となり得るそれ以前の運賃相場のデータを持っていませんので、これらの運賃の意味するところを推し量ることは難しいですが、それでも 新聞記事の雰囲気から運賃の高騰が進んでいる様子が窺えます。
『欧洲大戦の勃発を契機とし有力海運国船の撤退という好条件に恵まれて、遠洋安近海高から遠洋高近海安という現象が際立ち、ここに我国海運が対外航権の伸 長及び外貨獲得を企図し遠洋へ出動せんとする機運が極めて顕著になったのであるが、事変処理という崇高なる目的を有する我国にとっては激増する近海間の荷 動きに対応する事が最も喫緊なる要請だったのでこの事は到底許さるべきでなく嘗て「自由の子」としてその活躍を謳われた本邦海運は外貨獲得から共栄圏内物 資輸送の完遂へとここに画期的な変貌を遂げたのであった』
単純な道理ですが、遠隔地から物資を輸送しようとすると航行に要する日数は長くなります。したがって、同じトン数の船であっても、遠隔地同士の輸送航路に 従事する船は、近距離同士の港の輸送に従事する場合に比べて、期間あたりの輸送可能量は減少します。そのために乏しい船腹量でできるだけ多くの物資を輸送 しようとすると、どうしても近距離の輸送を重視せざるを得なくなります。
その影響から遠距離の国際航路に従事する船は減少し、近距離の国内・隣接国との輸送が増加するという構図になるのです。
この時期は日本は南部仏印への進駐もおこなっているわけですが、南北仏印への輸送に割り当てる船がどの程度あるのか?という点も興味深いところです。

なおこの記事では鉄鋼に関する記述も興味深いところです。
『労働力の問題に劣らず鉄鋼界を悩ましているのは船腹の不足である、即ち銑鉄一瓲を製造するためには石炭二瓲、鉄鋼石二瓲、石灰石〇・七瓲其他の原料を合 せると優に五瓲以上の原材料を要し是等は殆ど皆遠隔の地からの船舶輸送を要するものであるから、一口に云えば銑鉄一瓲は五瓲の船腹を要する事になる、政府 でも製鉄原材料の優先輸送を認め他業に比し配船の特恵を与えているのであるがそれでも益々激化して行く現下の船腹不足のため本年に入って現実の製鉄原料の 輸送量は計画より相当程度の減少を示して居る』
輸送船の不足が他産業に影響していることを伝えているとも言えますが、鉄鋼とは言うまでもなく造船に必要な資材。輸送船の不足が鉄鋼の不足を招き、鉄鋼の 不足が造船の停滞を招いているという悪循環が暗示されます。

昭 和十六年度に於ける日本経済前進の跡 (一~十一)(1941.12.11-1941.12.1)
このような状態のままで、ついに対米開戦を迎えます。
上記の新聞記事は、開戦直後の日本の経済状態を、1941年と言う太平洋戦争開戦準備に費やした1年を振り返る形で総括している貴重なもの。
『金融界の臨戦体制化への第一歩として、時局共同融資団が設立された八月二十日の翌々日、十六年度第二・四半期以降の物動計画が決定された、この物動計画 は云うまでもなく西南太平洋の危機に対処する戦時体制の急速なる完成を目指すところに重点が置かれているものであって、当日発表された鈴木企画院総裁の談 話を見れば明らかである、即ち策定の重点としては

(一)軍備の急速なる増強
(二)重要物資の東亜共栄圏内における自給体制の確立、特に鉄鋼石炭の生産確保
(三)国民生活必需品の最低限度の確保
(四)物資動員計画と海上輸送計画』
輸送力の不足に端を発する鉄鋼の不足、軍備の増強と民需(国民生活)の抑制、海上輸送とそれに密接に関連した物資動員の逼迫がこれらの方針から窺うことが できます。鉄鋼も「軍備の急速なる増強」と明記されていますので、おそらく造船にまわされる鉄鋼は二の次になり、軍需品の生産に優先的に割り当てられたの でしょう。この方針が示されたのが8月20日の翌々日、すなわち8月22日ですから、既に対米開戦前から軍需優先・民需抑制による経済政策・海上輸送体制 の破綻の構図が見て取れることになります。

総括

新聞記事をつぶさに見てきた通り、日本は開戦直前には既に海上輸送体制は破綻している状態で、そのまま対米開戦に踏み切ることになりました。日本の 輸送船の所要船腹は、新聞記事によれば本来なら最低でも1000万トン以上、あるいは1500万トンか2000万トンが必要という状態で したが、現実には日本は600万トンの船腹しか整備できない状態で戦争に突入することになります(そして、そのわずか600万トンの輸送船も戦争により次 々喪失し、海上輸送体制が完全に崩壊していくことになるのは、よく知られている話です)。

流れを整理して見ていくと、
1930年頃~:大恐慌による船腹余剰と、それによる船腹改善施設の開始、余剰船腹整理。
1932年頃:景気の回復による船腹需要の増大、それによる船腹輸入の増大。しかし船腹輸入を規制する動きが始まり、船腹の供給量を減らすことによる運賃 の高値維持政策がおこなわれる。
1935年頃:景気の拡大により船腹の需要がますます増大、完全に船腹の供給不足が生じる。しかし船の輸入を禁止する方針のため供給量は増えず、海上運賃 が暴騰。
1937年頃:海上運賃の暴騰により、価格統制の動き始まる。
1938年頃:輸入解禁、造船促進の方針が採られる。しかし鉄鋼や船員の不足により、船腹の増産がままならない。
1939年頃:船腹の大増産などが計画されるも、既に資材・人材を軍需に大量に取られて増産もままならない。船腹輸送航路の国家統制などに乗り出す。
このような状況で太平洋戦争に臨むことになります。
太平洋戦争開戦前10年間を俯瞰してみるに、あまりの海上交通政策の無策ぶりに唖然とするばかりです。不況再来に対する恐怖感か、はたまた海上運賃高騰に よるぼろ儲けを企図した海運側に思惑か、国家経済を考えず船腹量の抑制によるカルテルを推進し、最後に日本経済全体を毒する結果になったとしか評しようの ない海上交通政策であると言うほかありません。
果たしてどうしてこのような行き当たりばったりの海運政策が取られることになったのでしょうか。調べていくうちに、それを暗示する新聞記事を見つけまし た。

海 運界の転換(上・下)-(1940.11.22-1940.11.23)
「かねてから問題になっていた海運統制の強化は去る一日の海運中央統制輸送組合の設立によって一応の完成を見、ここに海運統制は一段の進展を遂げるに至っ た、今より三年前他の産業に率先して自治統制を断行し、今また新体制の軌道に押上げた主唱者が日本船主協会長と逓信大臣との職場を異にすれ、同じ村田省蔵 氏であったことは不思議な縁である」
こ い つ の せ い か。




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